2022年4月の講座

「ペルー北高地カハマルカ盆地の調査」

日 時

 2022年4月16日(土) 13:30~15:00 

講 師

 関 雄二(国立民族学博物館教授)

テーマ

「ペルー北高地カハマルカ盆地の調査」

場 所

 Zoom オンライン形式 ※レコーディング(録音)・引用等は不可

【要旨】

 カハマルカ盆地の調査を、年代を追いながら述べます。

 

 1979年、ワカロマ遺跡調査では、前期ワカロマ期(形成期前期B.C.1500年~B.C.1000年)、後期ワカロマ期(形成期中期B.C.1000年~B.C.550年)、EL期(形成期後期B.C.550年~B.C.250年)、ライソン期(形成期末期B.C.250年~B.C.500年)、カハマルカ文化(地方発展期B.C.50年~)の編年を確立し、前期ワカロマ期の特殊な部屋(神殿?)、アンデス初期の土器、後期ワカロマ期の土器、EL期らしき土器、埋葬を発見しました。

 

 1982年、ワカロマでは、大型の前期ワカロマ期の部屋、後期ワカロマ期の神殿、3段の大基壇、その上の水路のある部屋を発見、EL期の等間隔の炉跡からEL期が同定されました。ライソン遺跡からは、後期ワカロマ期の特殊な神殿、その神殿を埋めて造られたライソン期の神殿を発見しました。ワカロマ遺跡のライソン期では、神殿活動が終了し、マウンド上が住居として利用されています。ライソン期には神殿活動の中心が、盆地のワカロマ遺跡から山上のライソン遺跡に移ったと考えられます。

 

 1985年、ワカロマ大基壇では、基壇の上の部屋を壊して最初の基壇構造を埋め、外側に別の基壇構造と地下通路が造られていました。ワカロマは一つの時期に造られたのではないと、この時初めてわかりました。セロ・ブランコ遺跡の発掘でも基壇を支える壁が出てきました。ここの土器による編年は、ワカロマに似ていますが、ブーツ式の墓は海岸のクピスニケ様式に似ており、土器は、近隣のクントゥル・ワシの表面で拾う事が出来る土器とは全く異なります。

 

 1988年、ワカロマで最終基壇のアクセス、地下式階段の出入り口を発見し、大基壇の外側にも3段の基壇があるとわかりました。前期ワカロマ期の住居からは、多数の小部屋、炉跡、何度も作り替えられていることがわかりました。

 

 1989年、ワカロマの全体像が把握され、神殿更新も確認する事が出来ました。コルギティン遺跡で後期ワカロマ期の部屋、EL期の建築を確認でき、EL期の存在が確定、クントゥル・ワシのコパ期と同時期とわかりました。ワカロマでは、遺跡認定による私有財産の制限など地域住民の不利益から反対に遭い、遺跡の公園化は失敗しました。これは、私が文化遺産の保全と活用というテーマを考えるきっかけとなり、後のクントゥル・ワシ博物館やパコバンパでの住民との保全計画などの成果に繋がっています。

 

 2001年~2003年、カハマルカ盆地の一般調査から、前期ワカロマ期ではさほど遺跡もなく人口も少ない、後期ワカロマ期では、大規模な建物、中間的な建物が増え、居住地も造られている。EL期になると人口は増えるものの巨大な遺跡は離れたところになり、ライソン期では更に人口が増え、山上、海岸へ向かう古道に大規模な遺跡が増えるのがわかりました。ワカロマでも一般調査を改めて行い、ワカロマはロマ・レドンダ、モリェバンバと祭祀複合を構成し周囲を住居が取り巻いていた事がわかりました。

 

 カハマルカ盆地の調査では、単純な土坑墓はあるがエリートの墓はないことから、社会の中に差があったとは思えず、成員達が自主的に神殿を造り維持管理していたのではないか、と結論付けました。形成期社会のモザイク性、多様性がよくわかります。形成期の神殿を、一つ十年以上かけて集中発掘、比較し、しかも物質文化に対する徹底的な調査を伴いつつ発掘したのは日本調査団だけで、世界に誇れるものです。こういう調査に携われた事は喜びであると共に、この成果を次の世代に引き継いでいかなければなりません。それによりこのカハマルカ盆地の調査も新たな意味を見いだす事ができるでしょう。

(まとめ:大武佐奈恵)